弱い自分を意識する
たとえば急所ってあるじゃないですか。人中とか鳩尾とか、ああいうのはなぜ急所になるかというと、どんなに頑張っても鍛えることができないからなんですね。
たとえばコンピュータに急所があるとしたら、キーボードと電源でしょうね。
どんなセキュリティ対策をしても、キーボードから意図的になにかしたり、電源を切られたりしたら終わりです。
急所、弱点、そういうものは、ありとあらゆるものに存在するはずなのです。
クラウゼヴィッツも戦争論で「敵の弱点を見抜くこと」が勝利の鍵だと言っています。逆に言えば、弱点は必ずあるわけです。必ず見つけられるとは限りませんが。
自分の弱点を自分で意識することはよくあると思います。自分の弱点は自分が一番良く知っているものなのです。
僕は自分の弱さを自覚したとき、なんとも言えない情けない気分になります。
それが弱点であり、克服するのが不可能か、殆ど不可能に近いくらい大変だと解っているからです。
自分の娘を見ていると、自分の弱点がそのまま投影されていてドキッとさせられます。
好きなものに対する接し方、嫌いなものに対する接し方、その他どうでもいいものに対する接し方、といったものが僕のクローンのごとくそっくりなのです。
自分では普段表面的に意識しない部分の弱点がそこに投影されていて、なんとも言えない気分になります。
それで娘がなにかいたずらをしでかしても、叱るに叱れず、ついつい我がままを聞いてしまうのですが、そもそもそれが間違っています。それは弱点を増長させ、本人のためになりません。
さりとてそれを叩きつぶしてしまうと、精神が萎縮して、本人の良いところもスポイルされてしまいます。
娘の振る舞いから、彼女の保育園での社会的ポジション、将来学校で置かれるであろう立場などが自然に想像できてしまい、それについても何とも言えない気分になります。
僕はずっと友達が少なくて、今でも友達と呼べる相手は殆ど居ません。たいていの人には「あなたの考え方についていけない」と言われます。娘もそうなるのではないかと思って心配です。娘とはほとんど顔をあわせていないので、性格の大部分は遺伝的性質に依るのかもしれません。それともこれは一般的な形質で、僕が子供っぽいだけなのか。
先日、某社長仲間と飲んでいたときに、「清水はほんとに友達いないよなあ」と言われて、いや本当にそうだなと思ったりしてむやみに凹んだのでした。そして今また思い出して凹む、と。
僕は他人との距離をほどほどに保つ、ということがどうも苦手で、相手に踏み込んでいくか、隔絶するかの両極端しか選べず、本当に気のおけない相手というのは殆ど居ないのです。
そしてふとしたことで意見が食い違ったり、価値観の大きな乖離を感じたりすると、せっかくできた友達であってももう二度と会わない、というくらい心に壁を作ってしまうこともあって、友達もどんどん減っていきます。友達から知人になる、というよりも友達から知らない人になる、という感じです。見方によっては冷酷な性格なんですけど、どちらかというとこれは「傷つきたくない」という精神的な弱さから発生している逆転現象です。精神的に相手を消滅させてしまうことによって心理的なダメージから逃れようとする行動です。
これは対人関係だけでなく対物、対事象に関しても同様で、全く同じものに対しても、その物との関わりの歴史に影響されて、きわめて両極端な対応をすることになります。
さすがに今は年をとったので、自分が感情的になってると意識すれば、すぐに理性で感情を否定することができますが、どうしても理性でカバーできない状態もときどき出現します。それが僕の弱点です。
昔、シューティングゲームなどでラスボスがときどき弱点をさらけ出したりするのを見て、「そんなわけあるか」と思ってみていたのですが、弱点というのは時々外部にさらけ出したくなります。それがたとえばお酒を飲むことだったり、一人で旅をしてじっくり考えることだったり、家でだらしない格好でごろごろすることだったりするのですが、IT化される以前の世界では、そういうものは全て閉じられた世界で起きることでした。だからその期間が終わってしまえば忘れて、もとの強い自分に戻るのは簡単でした。
しかしIT化された現代では、間違って弱点をさらしているときの記録を残したり、その場で普段思っていることを相手にメールしたりしてしまう場合があり、朝目が覚めてからドキドキしながらメールの送信履歴やライフログを確認する、ということが日常的になってくると、その度に「もう絶対酒は飲まない」と思うのですが、飲んじゃうんですよね。
まさにそれが弱点と言えるでしょう。
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