Telestarと脳味噌スカスカな僕と、困ったオジサンと本田宗一郎

高校生の頃、僕は月刊I/Oと、その別冊である月刊Computerfanで記事や連載を書いていて、その原稿のやりとりに使われたのは、日本最古の商用ネットサービスと言われるTelestar(テレスター)というサービスでした。
このTelestarがかなりクセ者で、なにしろ日本最古ですから、システム的にも斬新というか、整理されてないというか、今考えるとけっこうTwitter的な機能も入っていたりしたのですよ。
たとえばチャットはあるんだけど、部屋という概念がないんですね。
無線みたいに「ch 20」ってやると、チャンネル20番のメッセージを受信するような設定になる。
こうすると、PCを操作中にどんどんチャットメッセージが割り込んでくるわけです。
いまのLinuxにも似たような機能はありますが、あんな感じですね。
逆に発言するには「talk 20 ほげほげ」みたいにチャンネル番号を指定して発言します。
これがなにが面白いのかと言うと、複数のチャンネルに同時に参加できるというところですね。
部屋に入って話しをするというよりは、無線でチャンネルをあわせて話をするという感覚に近い。
Twitterも、微妙に会話がかみ合ったりかみ合わなかったりするじゃないですか。そういうイメージです。
さらに、今の人に解りやすくいえばmixiみたいな機能ももともとついていて、要するに掲示板とかそのへんですけど、昔はパソコン通信といえばメールアドレスがあって、チャットルームがあって掲示板があって、というものでしたから、まさしくTelestarはその元祖なわけです。
ただ、僕が高校生の頃はもうすっかり廃れていましてね。Nifty-serveとかそういう大手のサイトにみんな流れてしまいまして、アクセスポイントも少ないTelestarは、原稿のやりとりをするために仕方なく訪れる工学社のライター連中のたまり場になっておりました。
今でも僕はかなりの気の毒な人ですが、当時はそれに輪を掛けて気の毒で、要するに馬鹿野郎で、いろんな方に迷惑をふりまいておりました。
その迷惑をふりまいたお相手の一人が、たしか田嶋さんといって、どこかの会社の社長をやってる人でした。確かなんとか製作所とかなんとか、忘れましたが。
これが40近くて独身で、当時の僕からしたら心配になるような人でしたが、その気の毒な馬鹿野郎の高校生に対して、毎日執拗にツッコミを入れてくるわけです。今でこそ、そういう人の気持ちが解るようになりましたが、当時は「このオッサン、なんでこんなに暇なんだ」としか思ってませんで、もうとにかくくだらない揚げ足取りの応酬。あんたも社長なら他にもっとするべきことがあるんじゃないのか、というくらいの勢いで、毎日揚げ足取り合戦でした。
どのくらい重度だったかというと、最近くどいうえに文章量が多いことで各地で不評なこのブログのエントリ。軽くこのくらいの長さがあるわけです。一回の揚げ足取りが。長いですよね。これが一日に十回くらいは繰り返されるわけです。病的ですよ。お互い。
田嶋さんが多用した台詞のひとつが未だに印象に残っていますが
「お前の考えはだからサッカリンなんだよ」
サッカリンってなんだよって聞いたら、人工甘味料だと。アマアマなんだよ、っていうことですね。
あとは
「お前のスカスカな脳味噌」
この表現が彼は大のお気に入りで、まあ他にも「スカスカ野郎」とか「スカスカ小僧」とかバリエーションに富んだ表現でありとあらゆる罵詈雑言を毎日浴びせられていました。彼のお陰で僕はどんどん図太くなったんでしょうね。非常に良い経験でした。
そのうちスカスカと呼ばれるのが面白くなってきて、他の面子からも「スカちゃん」と呼ばれるようになりました。
どうせだからペンネームもスカちゃんにしてやれ、と思ってある日雑誌にそのペンネームで書いたら、「著作権侵害だ」とか怒り出しましてね。罵詈雑言に著作権があるものか、と思ったりしましたけど。
そんなに憎まれていた僕ですが、ある日、田嶋さんが「4800bpsモデムが余ったら誰か欲しい人にあげる」とどこかに書いてまして、僕はもうすっかり図太くなっていましたから「僕いまだに1200bpsなんでそれ下さいよ 」と手を挙げたのですね。毎日罵詈雑言を浴びせてくる宿敵とも呼べる相手に物乞いするなんて、今考えるともう考えられないくらい図太いんですけど、そのときは本当にお金がない、貧乏な普通の高校生でしたからね。あの当時は銀行に入ってる原稿料を使ってモデムを買うなんてそんな畏れ多い・・・という感じでしたから、もうくれるものならなんでも欲しい、という勢いで。
さすがにこれだけバカ呼ばわりされてるからダメかな、と思ったら「送ってやるから住所教えろ」と言われてですね。怖かったんですけどどうせ新潟だし、まさかここまでは来るまいと思って住所を送ったのですよ。
すると三日と待たずにダンボール箱が届きましてね。
なんだ、けっこういい人じゃん、と思いました。我ながら救いがたいほど馬鹿ですよね。
その箱を開けたら、なんかモデムより先に出てきたのが、小さな本なんですよ。
これまた厳重に梱包されていてですね。
あけると、ものすごい手垢がついてる、というか年季が入ってる。
その本のタイトルは「わたしの手が語る」。著者は本田宗一郎。
田嶋さんの他の口癖は「ランチェスター戦略が」っていうのと、「R&Dが大事」っていうので、まあそのくらいが記憶にある唯一経営者っぽい台詞だったんですけど、こういう本をね、入れてくるっていうあたりがにくいじゃないですか。
でもなんかの間違いだったら悪いなと思ってメールを書いたんです。
「なんか本が入ってたんですけど」
って言ったら田嶋さんは
「お前みたいな馬鹿はそれでも読んで少しは勉強しろ」
っていうわけですよ。
なんかそのとき感じたのは、この言い方で合ってるかどうかわからないですけど、愛でしたね。
「わたしの手が語る」は本田宗一郎が自らの技術者人生を振り返って書いた回顧録なんですけど、これがめっぽう面白い。内容は殆ど忘れたけど面白いんです。
それから本田という会社に興味を持って、しばらくその手の本を読み漁ったわけですが、それでも肝心なことはなにひとつ解らないんですね。
本田宗一郎はいかにして本田宗一郎になったか、ということは自伝には書いてない。
そのあたりのことをたまたま通りがかった書店でみつけた「本田宗一郎の見方・考え方」という本で初めて知りました。
皆さんは、世界に名だたるあの、本田技研を本田宗一郎が創業したのって、彼が何歳の頃だと思いますか?
37歳ですよ。
その直前に、彼は自ら起こした東海精機という会社を国策のため人手に渡していて、ぶらぶらしているときに裸一貫で始めたのが本田技研。それがあっという間にグローバル企業ですからね。
10代で湯島の自動車修理会社「アート商会」に丁稚奉公して、21歳でのれん分けを許され、浜松にアート商会浜松支店を構えるも、その飽くなき向上心は満足せず、東海精機として独立を果たすものの、国策でトヨタの子会社になってしまい株を全てトヨタに売却。そこで裸一貫で37歳で起業。このバイタリティがまず凄い。
独立する理由とかも凄くて、「いくら修理で日本一になってもアメリカ人はオレのことなんか知っちゃくれない、だからモノを作るんだ」といってピストンロッドっていう自動車部品の中でも最も難しい部品を自作して売り始め、本当に海外に輸出しちゃうんだから凄いですよ。
あらためて本田宗一郎という人間の凄さを思い知ったのでした。
そんな凄い本田宗一郎という存在を、田舎のスカスカ小僧に教えてくれた田嶋さんにも同じくらいの感謝と尊敬をしています。
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